日本史について

先日、日本史に関するテレビ番組で鳥居強右衛門という人物が紹介されていて興味を持ちました。
 彼は戦国時代の侍で、織田信長が鉄砲隊で武田氏を破った長篠の戦いに関連した戦争で亡くなった人物です。彼は奥平氏に使える身分の低い侍でしたが、武田氏の大軍に囲まれ落城寸前であった城から命がけで脱出し、援軍を求めに行くという任務を与えられました。彼は辛くも脱出に成功し、味方の援軍が近くまで来ていることを知り、それを城に知らせようと戻ったところを敵方に捕らわれてしまいます。そして、城攻めに苦心していた敵方から城に対して降伏を呼びかけるように強いられます。彼はそれを承知したように思わせておいて、実際には援軍が近いことを城方に呼びかけ、その報復として武田軍によって殺害されてしまうのです。
 彼の自分の命を懸けた行動は、味方を助けるためのものであり、主君を助けるための行動でした。そのいずれかを強調するかによって、ある種の人道的な行為であるか、忠誠心の発露としてのエピソードかということに分かれるかと思います。
 私は彼の行為を後者であると捉えました。侍という彼の立場からです。
 ただし、忠誠心は一般的に封建社会特有の言葉のように感じられますが、私はそうではないと思います。忠誠心は上位者に対する誠実な服従であり、それとともに上位者からの評価と生活の糧が与えられるシステムだと思います。そして、その図式は封建社会に限らずどのような政治体制のもとでも成立します。むしろ、人間社会とはこうした結びつきによってバランスを保ち存続していると考えて良いと思います。
 忠誠心を美しいものと感じる気持ちは多くに人のなかに存在すると思います。それは人間が本能的に上位者に支配され、その見返りに自身の身の保全を図る存在=動物であることの現れです。そして、それは決して非難されるべきものではないと思います。なぜなら、忠誠心は受け身的なものではなく、その対象に対して上位者たる行動を要求するものであるからです。決して一方的な自己犠牲を強要するシステムではないのです。
 こうした意味において、忠誠心は現在においてももっと評価されて良いものだと思います。人間の活動=労働とはこの忠誠心のように本来は人間に対して向けられるべきものです。それが人ではなく、“効率”に対して向けられたとき、人間の労働は自己犠牲ではなく自己否定という落とし穴に落ちていくことになるでしょう。それは非正規雇用という雇用形態が幅を利かせている現在の雇用情勢をみれば明らかなことです。

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